一人のメイドがしあわせだった家族を完膚(かんぷ)なきまでに破壊しつくす。ようこそ不幸せの世界へ!

作品情報
- 評価 4.0★★★★
- 制作 1960年
- 公開 韓国:1960年11月3日
- 上映時間 110分
- 原題 하녀(下女)
- 監督 キム・ギヨン
- 脚本 キム・ギヨン
- 出演
キム・ジンギュ---キム・ドンシク、紡績工場の音楽の先生
チュ・ズンニョ---イ・ジョンシム、トンシクの妻
イ・ウンシム---オ・ミョンジャ、下女
オム・エンナン---チョ・ギョンヒ、女子工員
コ・ソネ---工場の舎監
アン・ソンギ---トンシクの息子、チャンスン
イ・ユリ---トンシクの娘
他
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あらすじ(ネタバレなし)
「オレはすべてを失ってしまうのか」 トンシク(キム・ジンギュ)は、独り言ちた。我が家に新しく下女に入った女性ミョンジャ(イ・ウンシム)に手をつけてしまった。さらに悪いことに彼女は妊娠したという。愛する妻に知られたらどうすればいいのだろう。もうすぐ3人目の子供が生まれるというのに。夢のマイホーム、一つずつ買いそろえた家具、あこがれのテレビ、かわいい子供たち。長年、二人で努力して築いてきた幸せがすべて崩壊してしまう。
トンシクは悔やんでも悔やみきれなかった。彼は妻思いの男である。長年、裁縫仕事をして家計を支えてくれた愛する妻をトンシクはだれよりも大切にしていた。紡績工場で音楽講師をしているが、女子工員が告白をしてきてもそれを舎監に通報して女子工員を辞めさせるぐらいの生真面目さをもつ。毎晩眠れない夜を過ごすトンシクのことを知ってか知らずか、下女ミョンジャは妊娠期の不安と苛立ちをぶつけはじめる。貧しいミョンジャから見れば、富を着実に手に入れていくトンシクたちは、あこがれの中産階級なのであった。
ミョンジャからの執拗な要求に恐怖を覚えたトンシクは、妻に浮気の事実を話す。妻ジョンシム(チュ・ズンニョ)は夫の裏切りに大きなショックを受けるが、築きあげた家庭をなんとしても守ろうと決心する。ミョンジャを言い含めて階段から落ちて堕胎をするようけしかける。子供を産むお金も、逆らう気力もなく、泣きながら階段から落ちて流産するミョンジャ。夫婦は、ミョンジャの体が回復すればお金で決着をつけられるともくろんでいた。
しかし、幸せだった家族はここからさらに不幸の淵へ落ちていく。流産したミョンジャは子供を失ったことのショックから、夫婦の企みを世間にばらすと二人を脅すようになる。以前にもまして狂ったようにトンシクを束縛しようとするミョンジャ。世間体を気にするあまり夫婦は彼女の要求を断ることができず、我が家にいるのに監獄にいるかのような生活を送る。
そして、運転手のいない暴走列車に乗った家族には、息をのまんばかりの末路がまっていた。
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1960年当時、キム・ギヨン監督の「下女」は、教条的もしくは通俗的な作品が多い中で、既成の概念を打ち破るショッキングな作品として韓国社会に大きなインパクトを与える。女性が煙草を吸う姿だけでも批判が多い社会で、一介の貧しい下女が、地域で経済的政治的に力をつけていく中産階級の夫婦を屈服させるほどの力をもつというとんでもない構図を描いて見せた。カルチャーショックともいえるキム・ギヨン監督の文化への挑戦、権力をもつ人間への揶揄が垣間見える、とんでもなく挑戦的な作品。
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※この先は、ネタバレが含まれます。未だ御覧になってない方は読まないことをお勧めします。
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えらそうなことは書きません。キム・ギヨン監督のこと全然知らないから。
この「下女」なる映画、アカデミー受賞作品「パラサイト 半地下の家族」のポン・ジュノ監督がえらく好きらしいが、それが理由が観たのではありません。以前からこの映画が気になっていて見ただけなので、たまたまの偶然です。あしからず。
1960年代のいわゆるクラシックな韓国映画もよく知らないし、キム・ギヨン監督がどんな映画をどういう風に作ってきた監督なのかも、思想もよく知らないのでえらそうなことは書けません。自分が直観的に感じたことだけを既存の知識だけで書いていくので、そこのところどうぞよろしくお願いします。
私なりに 監督のプロフィールを調べてみた。
その顔は、まるで黒澤明のように苦虫をかみつぶしたような気難しい顔だ。黒澤氏が1910年生まれ、キム氏は1919年。医大の受験に失敗後、21才から24才あたりまで(?)3年間、京都をぶらぶらして日本映画をしこたま観たそうだが、この時にたぶん日本映画からたくさんの素養を学んだのだろう。黒澤監督と同じような感性をもち、内在する表現へのこだわりをもって芸術を昇華していった同時代の偉大な映画人。勝手にそんなイメージをもった。
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画像元 미래경제
儒教的文化が強い韓国の、しかも60年代で、こんな下世話で通俗的なテーマなのに、ある種の芸術的ショックなるものを韓国社会に与える作品が生まれていたなんてちょっと驚きだった。
たしかに、テーマはそこらに転がっている男女の不倫による家庭崩壊の話なのだが、にもかかわらずそれが際立って目をひいたのは、
- <家という密室が舞台>
妻子ある男の家という密室ですべてが起承転結している。 - <下女の狂人化>
どこにでもいる普通の内気な下女が、意に反して流産させられたことで、軌道を外れた列車のように夫婦の築きあげてきた幸せな世界を破壊しはじめる。 - <悪循環。悲劇が津波のようにふりかかる>
夫婦は、外に助けを求めようと思えばできたのに世間体を気にして躊躇したために、下女がますます暴走し、終には本当の悲劇が一家を襲う。場所、登場人物が著しく限定されていながら、すべてがあり得ないほど自由で劇場チックで斬新なのだ(きっとあの時代においても)。無限のドラマが広がっているような感じさえした。
キーワードは、ピアノ、階段、ミシン、そして殺鼠毒だ。
監督は、これらのキーワードを映画に頻繁に登場させることで、観客にこの映画で抱いてもらいたいイメージを印象的に刷り込むことに成功している。まさに印象派的映画手法だ。一つ一つのシーンが記憶に鮮明に残るのである。
わたしの推測だが、
ピアノは、一家の幸せを表し、
階段は、二人の女に挟まれた男の心理状態を表し、
ミシンは、妻の心の拠り所を表し、
殺鼠毒は、やがて一家に訪れる破滅を表しているように思えた。
(楽しいぞ!この謎解きは)
一家がまだ平和だった頃、下女ミョンジャが二匹のネズミを殺鼠毒を用いて殺しているが、近未来の一家の崩壊をまさに暗示しているようで、直観的に心がざわついたのを覚えている。キム・ギヨン監督、ぶっ込みが上手いのよー。
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三者三様の愚かさ。破壊力の高い女どもも悪いし、トンシクも最悪だ。だが、妻ジョンシクははもっと最悪だ!
愚かさその1.堅物に見えて、女にべたべたする男トンシク。

一見、堅物に見えて、実は女をその気にさせているトンシク。
とにかく色男だ。イ・ビョンホンみたくセクシーだ。
トンシクは家の借金と子供の養育費で内心おちつかない日々を送っている。やっとつかんだ人並みの暮らしだ。とにかくお金を稼がないとならない。
そんな折、ピアノを教えてと近づいてくる女子工員キョンヒ(オム・エンナン)に、レッスンと称して教える一方で肩を抱いたり、手を重ねて弾いたりする。こんなことされたら、そりゃ女は鉄壁に誤解するじゃないの?って思うことばかりやるのだ。なんなのだこの男は?!
そして、寝た下女が妊娠すると、慌てふためいて思考停止になり妻に泣きつく。しかし愛する妻になじられると、「そもそも君のために下女を雇ったんだ」と開き直る。自分で考えて困難を打開しようともせず、その後は妻に頼り切りになる。しかし妻のはるか上手(うわて)をいく下女には到底敵わず、一見イヤイヤ従うふりをしながらベッドを共にするのだ。なんて最低男なのだろう。
主を失った家庭は山崩れのように崩壊へと向かう。トンシクは情けないほど家庭を守れない無能力だった。
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女子工員キョンヒの愚かさについては、次の段落で後述しているのでここでは割愛する。
「2位 浅はかな女の巻 ー チョ・ギョンヒのレイプ偽装!」
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愚かさその2.不幸の中、ひたすらミシン作業に閉じこもる妻。ミシンだけは自分を裏切らない!

イヤなことを避けるようにひたすらミシンに逃げる。
この映画は何度も言うが、俗な家族の俗な日常風景がテーマだった。浮気や不倫など、ただの昼ドラレベルなのだ。それがこれほどまでに非日常的な震えを呼ぶ名作となったのは、ただの猫だと思って飼っていたらトラになっちゃった的な仰天があるからだ。
中産階級を目指してお金を貯めて家を買い、子供を産み育て、ただただまじめに生きてきた夫婦が、旦那がメイドに手を出したばかりにとんでもない不幸せの底に沈んでいくという。そりゃもうわくわくする展開だ。
観客の意見は、二つに割れるだろう。メイドに手を出した男がすべて悪い派と、たかだか不倫ぐらいでそこまで家庭を崩壊させる下女が悪い派だ。ちなみに、わたしはどちらでもない。わたしはこの夫婦自体が最悪だったなと思っている派なので、少数派に属するだろう。
トンシクはすごい男だ。メイドにちょっと手を出しただけではない。この男はメイドを一夜で孕ませ(いよ!絶倫男!)、なんとその後始末を妻に頼っている最高に情けない男なのだ。この情けなさは悲劇を悪化させた原因でもある。
しかし、はっきり言っておく! もっと恐ろしいのは妻ジョンシクだ。
結局、妻が下女をそそのかして堕胎させたことから、下女はエクソシスト的下女へとパワーアップする。下女に潜む悪魔的憎悪に火をつけたら、3段飛ばしでアップグレードしちゃったのだ。このままいくと本当に自分の命まで奪われてしまうかも知れないのに、妻はその後も下女と対峙せず、息子まで殺されても、世間体を気にして下女の言いなりになる。同じ家にいるにも拘わらず夫をとられ、三度の飯を作らされ、まさに下女の下女へとなり下がるのだ。
下女ミョンジャの「あたしこの家をもらうの」という言葉が現実味を帯びてくる。下女と寝室に向かう情けない父親と泣いてばかりいる母親。そんな大人の情事にさんざんつき合わされた子供たちは、まさに心理的ヘル(HELL) 状態だったろう。心から同情する。
あうー。妻ジョンシムが狂ったように奏でるミシンの音が耳から離れない。
妻は悲しいことがあっても楽しいことがあっても、ミシンとともに歩んできた。唯一信じられる恋人ミシン。誰よりもそばにいてくれるミシン。憎たらしい子供よりお利巧のミシンちゃま。夫トンシクが今際の際(いまわのきわ)妻のそばで死にたいと近寄ってきても、決して愛ミシンのそばから離れることはなかった。
わたしにとっては、下女よりトンシクよりキョンシムより、妻ジョンシムが一番のホラーだった。
以上、ミシンと妻ジョンシムの深淵な関係を考察しました。
自分あほかー!
「下女」 ー 最高にお気に入りのシーンやセリフ
第1位 最強サイコ下女! 階段で息絶えるの巻~

映画のポスターやDVDのジャケットにもなっているこの階段シーンはあまりにも鮮烈で言葉を奪われる。芸術が爆発してやしないか? トンシクの赤ちゃんを産むこともできず、ましてや奥さんになることも出来ず、愛する男に忌み嫌われ、彼の子供にも憎まれ、挙句の果てに自分の死に場所が、自分の赤ちゃんが亡くなった同じ場所とは。
目ひんむいてヘビ女のように空をにらみつけ絶命しているその死に方は、確かに鳥肌が立つ。しかし、一方でムンクが描いた高尚な一幅の絵のようでホレボレと見とれてしまう。愛する人の幸せを祈るどころか、その人の家庭を破壊しまくった挙句、勝ち誇ったように死んでいる姿は(両手を挙げ万歳してる!)、監督が計算しつくして演出したものなのだろうか。
なんてあっぱれな女なのだろう。
ちなみに、このシーン。疑問がたくさん湧いてくるすごいシーンだ。
どうしてずりずりと落ちていかないのだろう? ガムテープで固定しているのか? 60年代の韓国って家の中でも靴履いていたのか?
なぜ下女の靴は脱げ落ちなかったのだろう? 仰向けで、この体勢で死体になるなんてウンシムさん大変だっただろうなぁ。ポスターと階段の位置が違うのに、下女は全く同じ体制をしている。不思議だ。画像処理なんて技術が当時あったのか?
何度も見ている内に余計なことまで考えてしまう。名シーンとはかくたるものなのだ。
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2位 浅はかな女の巻 ー チョ・ギョンヒのレイプ偽装!

もう大爆笑してしまったのが、下女ミョンジャを紹介したキョンヒのレイプ偽装である。時系列的な説明をすると、とんでも下女がこの家で騒動を起こす直前のプレリュードとして、キョンヒがまずやらかしている。ほんとに疲れる女どもなのだ。
ひそかにトンシクに思いを寄せていたキョンヒは勇気を出して彼に告白をするのだが、拒否されたことに腹を立て、「死んでやる!」と彼を脅す。だが、一片も動じないトンシクを見るとますます逆上し、自分の衣服を引き裂いて、
「遺書に先生にレイプされたって書くわ。罰を受けるといいんだわ。こうすれば世間も信じるわ(ビリッビリビリッ)。なんならスカートも引き裂いてやる!」とまるで壊れた機械のように発狂しはじめる。わたくし、まってましたと飛び跳ねた。
ご存命ならキム・ギヨン監督にぜひ聞きたいのだが、この時代の韓国の女性ってこんな気ちがいじみた行為をとるのが常態化していたのか?
既婚男性に告白して拒否されたからといって、
死んでやる → レイプされたって言ってやる → 上着破く → スカートも破ったるでー!
こんな浅はかな発想をする女が本当にいたのだろうか?
役作りや演出の上で不自然に思わない人はいなかったのだろうか。このシーンだけではない。この映画では女性に浅はかな言葉を使わせたり、煙草を吸う女だからと卑下したり、女を見下げるシーンが結構多いのが気になる。まぁ時代や儒教的文化から考えて仕方がないのかもしれないが、それにしても行き当たりばったりな女性ばかりが出て来る。
これは、監督が女蔑視や女ギライの思想をもっていたか、はたまた世間の偏った常識に一石を投じようとしたかのどちらかであろう。後者であることを祈る。
結局、キョンヒはどうしてもトンシクが自分のことを振り向いてくれないのが分かると、泣きながら家を飛び出してしまう。そして、まさにその後、トンシクは家に二人っきりになった下女ミョンジャと一夜を共にしてしまう。
キョンヒは拒否して、ミョンジャとは寝てしまう。この違いは一体何なのだろう。なにが彼の魔を刺したのだろう。わたしのゴシップ魂が春の虫のように蠢(うごめ)いてしまった。まことに印象的なシーンなのだ。
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おまけだ。
トンシクが下女の魅力にはまったシーンを紹介しておこう。上記の写真をご覧になってもらいたい。
下女の顔はボカされ、背後にいるトンシクだけがフォーカスされている。一瞬だが、彼の獲物を見つめる虎のような眼(まなこ)がすばらしいのだ。ついさっき、服をびりびりに破り捨てたキョンヒには目もくれなかったのに、下女には何かを感じてしまったのか。
ヤンジャが煙草を落とし、拾い集めようとしていたトンシクが手を止める。窓際に立つヤンジャの華奢(きゃしゃ)な後ろ姿をぼんやり見つめていた。外は雨。妻は実家に帰っていて留守だ。彼の眼がまさに野生の動物のように光ったのが、この瞬間だ。
まだ下女には手さえ触れてはいないが、彼の心はすでに捕らわれている。あとは滝水のように上から下に落ちていくだけだ。すべてを失うとも知らず。ああ。男ってつくづくバカね。
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3位 エンディングがまるでコント並み。妻が吠えるの巻「男はけだものよ!」

この映画、なんで最後はこんなオチで終わっていくのだろう? この最後を見てぶっとんだ人は多かったはずだ。まるで植木等ばりの、「ハイ、それまでよ~」的な終わり方に、わたしは腰砕けになった。2時間弱つづいたそれまでの高尚でシリアスな風景はどこに行ったのだろう?
妻と夫。それまで、どんな苦難にあっても貞淑な妻、愛妻家の夫というイメージをもって見ていたが、「男はけだものよ!」と言い捨てる妻に、へらへたと言われるがままの夫がそこにいた。挙句の果てに「(若い下女を)家に置くのは虎に生肉を与えるようなもの」と妻は夫にダメ押しをし、夫はカメラに向かってネタバラシ完了のように「あっはっは~」と笑って終わる。下女ミョンジャは何もなかったかのように隣りで笑って見つめている。
なんじゃこりゃ???
こんなコントのような終わり方ってあり?
たしかに数秒茫然自失となったが、わたしはこんなエンディングを選んだキム・ギヨン監督がキライになれない気がした。それどころか、心から愛してしまいそうになった。どこかの似非芸術家のようにさもこれが芸術だと訓示を垂れたような終わり方にせず、ドリフターズのように、頭上からやかんが落ちてくるような終わり方には、監督の映画と観客への果てしない愛を感じた。ちゅ。
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幼きアン・ソンギさん!(藤山寛美に激似!)

キム・ギヨン監督作品は2作目
幼いアン・ソンギさん。この時からすでに映画の申し子だったのか。生き生きと演技をしている。一瞬気づかなかった。顔がとっちゃん坊やなところは藤山寛美の隠し子かと思うほど。ソンギさんは、トンシクの息子役で、最後は下女ミョンジャに殺されてしまう。
この息子、えらく情のない子で、足の悪い実姉を「不具者!」と罵ったりバカにしたり、果てはびっこを引いて歩いてみせたり。監督が、小さな子をどうしてこんな底意地悪いキャラクターにしたのか不思議に思えた。小さな子供のもつ残酷性(=毒)を表現したかったのだろうか。それとも、貧困層と中産階級を対比させて、台頭する中産階級の傲慢さを揶揄したかったのか。子供は素直だから、親の思想や姿を率直に映す鏡であることは間違いない。
キム・ギヨン監督の他の作品をざっと見ると、親北的な、やや社会主義に傾倒した思想のようなものを感じるのだが、資本主義=悪(よって中産階級=悪)のような視点もあったのだろうか。
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<Youtube> 下女ミョンジャを演じたイ・ウンシムさん。2015年の姿。
下女ミョンジャを怪演したイ・ウンシムさん。なんと1935年、日本の名古屋生まれだそうな。うれしい。
1982年47才の時、監督で夫のイ・ソング氏といっしょにブラジルに移民されたそうだが、2015年、釜山国際映画祭に招待され、33年ぶりに韓国に一時帰国されている。その時の会見が上記の動画である。
「下女」を撮影した時は、苦労がたくさんあったそうだ。煙草の吸い方がわからず咳が止まらずNGばかりだしたり、階段で逆さになって死ぬシーンが想像を絶するほどきつかった等。「下女」の後、何本か映画に出演したそうだが、自分には演技の才能がないと見切りをつけた。夫で監督のイ・ソング氏が体が弱かったこともあり、映画世界に別れを告げてブラジルへ新天地を求めた。
あんなすばらしい作品に出たのに、ブラジルへ行っちゃたんだ。なんとももったいない話だ。
「下女」はその後、2010年に「ハウスメイド」というタイトルでチョン・ドヨンさんが下女役でリメイクされたが、ウンシムさんは、彼女の演技の方が自分よりはるかに上手いとほめている。その時代の文化的背景や感性があるから一概に比較はできないが、いやいやいや、私は1960年の「下女」のほうが破壊的インパクトは断然強いと思う。モノクロのおどろおどろしさなのか。そう。狂気を身にまとった世界最高峰のサイコ下女は、これからもイ・ウンシムの下女だけだ!
※ちなみに、イ・ウンシムさんが帰国されたのならとチョン・ドヨンさんとのツーショットがあっても良さげに思うのだがどこにもない。なぜだろう? 当時二人のスケジュールが合わなかったのか? 残念に思えた。
イ・ウンシムさん、どうぞ体を大切にして長生きしてください!
サランヘ!

イ・ウンシルさん(2015)
画像元 Yonhapnews
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