人は一つの役目をもって生まれ、それを果たして死んでいく。

作品情報
評価 3.0★★★
制作 2014年
上映時間 110分
原題 두근두근 내 인생(ドキドキ私の人生)
原作 小説「ドキドキ私の人生」 キム・エラン
監督 イ・ジェヨン
脚本 チェ・ミンソク、イ・ジェヨン、オ・ヒョジン
出演
カン・ドンウォン、ソンヘギョ、チョ・ソンモク、ペク・イルソプ、イ・ソンミン、キム・ガプス
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※この先は、ネタバレが含まれます。未だ御覧になってない方は読まないことをお勧めします。
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大仰なことをしない。毎日を淡々と生きていく
いやー、泣きました。
ほんとよかった。
DVDがずーっと手元にあったんだけど、忙しくて見れなかった。
ソン・ヘギョやカン・ドンウォン、キム・ガプスがキャストじゃ、見ないわけにいかないわと思いつつ、仕事が忙しかったので帰宅してPCを開けることもできず、寝てました。年をとると体が元気なくなってくるこの頃です。
映画のほうですが、ほんとーによくできてました。
16歳の病気の男の子(アルム)を演じたチョ・ソンモク君は、しじゅうかすれた声を出していて、それが重度の先天性の病気(早老症)をもつ子供の危うさをうまく表していて、とてもリアリティに映った。

この映画は、数か月の命と宣告された子供をもつ両親が、子供の残された人生とどう向き合って生きていけばいいのかをテーマにした作品。
人生においては、結果よりもプロセスが一番大切だと信じて疑わないわたしは、
主人公アルムが結果として死ぬのか生きるのかよりも、映画の最後まで、
「アルムがどう生きるのだろう」、
「両親はどんな苦労をどういう風に受け止めていくのだろう」
という点が一番の気がかりだった。
頼むからそこで思い切り泣かせてほしいと願った。
わたしが韓国映画を観るのは泣くためである。
泣くと、深く学べるような気がするから。
(どうしようも切なすぎて、その後がすべて思考停止になる日もありますが)
え?、深く学べるってどういうこと?
それでなにかいいことあるの?
もしかしてあなたはこう聞きたくなりますか?
上手くは言えませんが、一生懸命答えますね(脱線すみません)
深く学ぶというのは、知識として学んだり、頭で理解することではなく、
「心で学ぶ」「心で気づく」みたいな感覚です。
「あ、人生って〇〇〇なのかもしれない」
「ああ、わたしは間違ってなかったんだ」
「そうだ。生きるって正しいことなんだ」
「これでいいのかもな・・・」
みたいなことを心のどこか深いところで、そっと「気づく」ということなんです。それはまさに自己肯定に近いものといっていいと思います(自我礼賛ではないですよ)。
ささやかですが、この「気づく」という行為を積み重ねていくと、心に不思議な変化が起きてくる。この鬱屈しで不安いっぱいの毎日がすこしだけ楽(らく)になるんです。
心がすこし救われる感じになると、顔を上げて歩けるようになる。路傍の小さな花が美しいと思える。夕日に不安を覚えなくなる。明日もがんばろうかな。とそんな気持ちになれるんですね。
わたしにとって韓国映画はそんな力があります。
生きるのに疲れたり、いやになったり、老後に不安を覚えたりした時、ほんのちょっと心に「気づかせて」くれる。そんな癒しのようなものなのです。
あ、大きく脱線しました。ごめんなさい。
で、韓国映画を観てきてよく思うのは、この手のように生や死をテーマにした作品では、ほとんどの場合、主人公にかかわる家族や親戚や友人たちは大仰(おおぎょう)な行動をしないし、大事件を起こすわけでもなく、ただ毎日を淡々と自分たちができることをこなしていく。もちろん、悲しい思いをこらえながら、冗談を言いながら。
カメラは丁寧に彼らの毎日の表情を追い、その中で生命力の弱い者がそっと亡くなっていくというプロセスを映しだしていく。けっして冷たい目線ではなく、かといって暖かい目線でもなく。
「死」とはぜったいに抗えないものである。
そんな抗しようのない死をいうものを前にした時、とくに病気は人をじわじわと時間をかけて追いつめていくけれど、その時、人はじたばたして運命から逃げようと泣き叫ぶよりも、頭(こうべ)を垂れて静かにあの世への列に並ぶような気がしてならない。
韓国人も然り。親しい人が亡くなる場合、「亡くなる」という感覚よりも、「旅立つ」という感覚でとらえているのではないか。次の世界に旅立つ時が来ただけのこと。つまり「死」とは韓国人にとって場所は違えども、「生」の連続でかないのではないか。ふとそんなことを思った。
その意味で、韓国のお葬式では、残された家族がとる派手な「泣き」があるけれど、あれはパフォーマンスに過ぎないように思う。心の奥では日本人と同じ諦観をしっかりと感じているような気がしてならない。
おっと、異文化論に飛んでしまったが、
アルムの体調がだんだん弱り、死を目前にしていく間の彼を取り囲む人々の言動を見ていて、わたしはそんなことを考えていた。
「間(ま)」をうまく演じた
さて、アルムの両親を演じたソン・ヘギョとカン・ドンウォンについてですが、その演技の上手さに感心したのは私だけではないでしょう。
生死を扱った作品だけに、当然、セリフよりも語らない部分である「間(ま)」が重要になってくるし、これをどう表現するのか見どころでしたが、やはりお二人とももうベテランの域に入っている役者さんなので、ひじょーにハイレベルでした。わたしは二人の作り出す「間(ま)」にちゃんと泣けました。
「間合い」をきちんとわかった役者を使った作品の勝利。
なんとなく昔の日本映画に流れていた「間(ま)」をここで観たように思えたのはわたしだけでしょうか。

さて、とても気に入ったシーンがあります。
学生の頃、両親が出会ったシーン。森の風景の描写が息をのむほどきれいでした。
全体に緑の透明フィルムをぱちんとはめた感じで、芸術とはちがう一歩手前の、軽めのファンタシー調を出しながら、ぱたりと音が消えた間合いを、水面や風や虫の音だけで永遠の時空を表現している。とても感動しました。この表現方法は、日本と韓国ともとても似たものをもっているように感じます。
悲しい物語なのに、悲しく思えない。
うつくしい涙をはらはらこぼして、「生きる」というのはこういうことなのだ。これでいいのだと、深淵な存在に感謝したくなる映画。
いきなり泣き出したアルムを心配した父親に、
「なにもかもがうれしくて感謝しているんだ」とアルムは返す。
アルムが言った言葉にわたしは救われる気がした。
感謝。ああ、彼が生きた理由がここにあるんだ。
人は感謝するために生まれてきたんじゃないのか。
感謝するために生きていくんじゃないのか。
そして、「生きる」という行いはとっても正しいことではないのか。
一生懸命生きている人は、短くてもすべての時が美しい。
そんな映画でした。
生きることに不安を感じているわたしにいろいろなことを教えてくれました。
読んでくださってありがとう。
追記
原題を日本語訳すると、「ドキドキ私の人生」(두근두근 내 인생)になります。
日本人にとってはピンときませんね。コミカルな作品ではないので、日本では邦題で正解だったなと思いました(笑)
原作は、キム・エランさんの本、「ドキドキ私の人生」です。そのまま映画のタイトルになったようですね。
