その男の記憶を信じるな!すべてが作られたものだ!

作品情報
●評価 4.5★★★★
●制作 2017年
●上映時間 118分
●原題 살인자의 기억법(殺人者の記憶法)
●英語題 Memoir of a murderer
●監督 ウォン・シニョン
●脚本 ウォン・シニョン
●出演
ソル・ギョング、キム・ナムギル、キム・ソリョン(AOA)、オ・ダルス、ファン・ソクチョン他
・
ご注意ください!
※ご注意 「殺人者の記憶法」には、「殺人者の記憶法」(ここでは前編と呼ぶ)と「殺人者の記憶法-新しい記憶」(ここでは後編と呼ぶ)の2つがありますが、断然、前編の方から見られることをおすすめします。本シリーズは前編と後編がそろってはじめて完結作と理解しています。順番が前後すると面白さが半減するのでご注意ください。
・
・
※この先は、ネタバレが含まれます。未だ御覧になってない方は読まないことをお勧めします。
・
ウォン・シニョン監督天才だ! ソル・ギョングすばらしい!
「殺人者の記憶法」(前編)を見た後に「新しい記憶」(後編)を見たことで、パズルだった断片が一つの大きな絵に仕上がっていくのを感じた。
素直に、すごい!おもしろい!という言葉以外に出てこなかった。
同監督の「セブンデイズ」に負けないぶっとびがある。
ウォン・シニョン監督、あんた天才だっっっ!
「だまされた!」というしてやられた感と、「すごい!」という感動がごちゃまぜになるような爽快感。こういうふうに大好きな映画にやっつけられるのが超絶気持ちいい。
・
なんといってもソル・ギョングのビョンス役は最高だった。
ぼさぼさでベトベト感のある白髪、焦点の定まっていない瞳、時折記憶は飛び、あっという間に子供に変身してしまう、アルツハイマーで重度の脳障害をもつ老父のなんともいえない痩せ枯れ感が刹那的で愛しくなるほどだ。
・
・

一方で、ビョンスは連続殺人鬼の顔をもつ。昔は何人殺しまくったか分からないほどのサイコパスだ。正気に戻っている間、獲物を見つけて追いかけまくる瞳の奥の冷徹さはこちらが逃げ出したくなるものがある。ソル・ギョングは、ビョンスが正気でいる時とそうでない瞬間をものの見事に演じ分けていた。
ソル・ギョングでなければこれほど感動したかといえば、絶対に否と答えるだろう。それほどビョンス殺人鬼は圧巻でした。アカデミー賞なんかに負けない。
・
・
ソル・ギョングの独白がわたしたち観客を巧妙に引き込む
あと、もう一つ感動するのは、ビョンスの「独白」であろう。
あの独白のファンになった人は私だけではないはずだ。
この映画は、ビョンスの独白にはじまり、独白がかなりのシーンを占める。
そして時に抱腹絶倒するほどおもしろい。とくにビョンスが文化センターの詩の読書会に初めて通った時のぶつぶつ独白はのけぞって笑える。この映画はサスペンスだけでなく、ブラックジョーク満載のコミカルな部分もある。
・

映画がはじまるとすぐに彼の独白ははじまり、ビョンスが音声レコーダーに記録するように、延々と独白はつづいていく。
この独白はある重大なことを私たちに教えてくれている。
それは、彼が独白をし続ける間、私たちはずっと彼の視点からの回想に引き込まれていくということだ。彼とともに驚き、悲しみ、立ち上がって興奮し、走り回って泣き叫ぶ。まるで操られた子供のように。
深くだまされていることに気づかないまま、私たちは自分で考えることを放棄する。独白はこのように自分が与えられた役割をちゃくちゃくと果たしていく。
・
見事にはめられた! あちこちに巧妙に仕掛けられたワナがある。
1.「記憶法」とは何だ?ここに映画を解くカギがあった!
前編を見た時に、ビョンスが事故による頭部損傷とアルツハイマーにより記憶障害になっていくことから、わたしは「記憶法」とは、てっきりビョンスの「レコーダー(録音機)」による記憶法を意味するのだとばかり思っていた。つまり単なる記憶の物理的方法論として片づけていたのである。
ある意味、前編だけしか見ていなければ、記憶法とは「レコーダーによる記憶法」だと考えるのも無理はない。 レコーダーは娘ウニが父ビョンス(ソル・ギョング)のために買ってきてくれたものであり、ビョンスもこれを毎日使って記憶を思い出せるように努めていた。 (かつての)殺人者の記憶法がそれだと考えることは筋が通っているように見える。
・

しかし、そもそも、なぜレコーダーが使われたのか?
ここには意味があると思ったので私なりの解釈をしたい。
レコーダーは、電子機器であり、録音された声や音は有力な証拠となることから、ビョンスがこれを信頼するように、わたしたち観客もレコーダーに残された声や音に疑いの余地をはさまなくなる。レコーダーに録音されたというだけですっかり信じ切ってしまうのである。
さらに、レコーダーに淡々と録音する行為がビョンスの独白と似た行為であることから、二つは相乗効果を生み、観客はますますビョンスの世界観へとひきずり込まれ、自分の考えをもつことを放棄していく。
・
つまり、勘のいい人なら、独白もレコーダーも観客をだますためのツールであり、「記憶法」とはそれとは別のものだということを見抜くことができるだろう。
その証拠に、前編では、食堂でウニが父親にレコーダーをもつことを勧めるシーンが出て来るが、この後編ではそのシーンはカットされ、代わりにビョンスが靴を左右反対に履いて、交番で娘にたしなめられるシーンが入れられている(これは後述する)。奇妙だ。まるで後編では「レコーダー」が記憶法として否定されているように見えるではないか。
・
・
2.殺人者の「記憶法」とは? これが私なりの解釈だ!
つまり、ここで私なりの種明かしをすると、
殺人者の「記憶法」とは、他でもないビョンス独特の記憶法を指している。
それは、記憶障害を抱えているビョンスが脳から自分の好きな思い出は残し、気に入らない思い出は削除していくという、ある意味身勝手な記憶法を(無意識に)操っているという意味である。
こうして作り出された記憶は、まさに「新しい記憶」であり、それは真実とは正反対の虚構の世界である。これは、キム検事が病院に来てビョンスを聴取する際に放った言葉からも推測できる。アルツハイマー患者の脳がもつ独特の特徴に影響を受けている。
そう。これはレコーダーで記憶をとどめるという単純な方法論から、ビョンスこそが昔から現在にかけて連続殺人を犯し続けている張本人であったにも関わらず、その都合の悪い記憶だけを消し去って、自分に都合のいい記憶だけを残すという、つまり、ビョンスは加害者ではなく被害者だと思い込んでいること。これこそが殺人者の「記憶法」であり、「新しい記憶」はこれを基礎としてこの上に塗り替えられていく。
ビョンスにとってレコーダーなんぞはそもそも必要がなかった。
ほんとうに必要なのは、自分にとって都合が良くなる「記憶法」である。
それが明らかにされたのが、どんでん返しのこの後編であった。
彼にとって大切なのは真実ではなく、彼の脳が作り出す虚構の世界こそが大切なのであって、レコーダーはむしろ邪魔であり、彼の甘美で優雅な虚構の世界をゆがめるものでしかない。
前篇にあった食堂での娘とのレコーダーについての会話部分が後編ではカットされているのは、まさにそれを暗示している。わたしはそう捉えた。ふふふ!
・
・

前篇にしかこのシーンはない
わたしはだれのレビューも読まずに以上のように考えましたが、みなさんはどう考えましたか? いろいろな考えがあるので、それぞれの考え方でいいかと思っています。
・
・
3.靴を右と左をはき違えるというメタファー(暗喩)

気づいた娘ウニが靴を履き替えさせるシーン
ここは振り返ると、とても象徴的なシーンだったと思う。
ビョンスはよく記憶障害を起こす。
自分が誰なのか、どこにいるのか分からなくなった彼が交番で保護されている時、娘ウニが駆けつけ父を介抱するシーンだ。
「お父さん大丈夫? あ、また靴を左右逆に履いている」
とつぶやきながら、ウニがビョンスの靴を履き替えさせるのだが、右と左の靴でさえ履き間違えて気がつかないのだから、日常生活の細かな判断はすでにできなくなっていたに違いない。
また、「右は左、左は右」という言葉が暗示するものは、とどのつまり加害者は被害者であり、被害者は加害者であるということ。つまり、ここにはワナがある。だまされるな!という監督からのメッセージでもあると私は受け止めた。
・
ビョンスが靴を逆に履くということは、映画の冒頭1分30秒あたりでも出て来るが、前篇では冒頭のみ、後篇では冒頭と終盤の2か所にもわたる。
そのとおり。
この後篇において、再びわたしたちに強く教えてくれていたのだ。
・

靴を左右逆に履かせるということで、「この映画にはワナがある」もしくは、「あなたはこのように善と悪に混乱する」というメッセージが込められているとわたしは読みましたが、あなたはどう読んだでしょうか?
・
・
土下座します。前編のレビューは誤り。完敗でした!
前編のレビューでは、わたしは「殺人鬼同士の戦い」だの「若造殺人鬼とじじー殺人鬼の戦い」という構図をつかって、さもわかっている風にレビューしましたが、前言撤回!
ウォン・シニョン監督の罠にまんまとひっかかったと認めて、ここに懺悔します。
書いたレビュー自体は破棄しませんが、やられたと素直に認めます。
これは殺人鬼同士の戦いでもなんでもなかった。
犯人は、後にも先にもたった独りしかいなかった。
そうビョンスでした。
そこには対立構造は一つもなかった。
すべてはビョンスの頭の中で作り出した空想であり、脅迫であり、心地いい回想であった。ミン・テジュの車に追突したことも、ミン・テジュに脅迫されたことも、ミン・テジュが娘を殺そうとしていることも、すべてが真実とはかけ離れたビョンスの「都合のいい」空想だった。
ビョンスの記憶を信じ、彼に同情して味方し、手に汗をにぎってハラハラどきどきし、ミン・テジュおまえはなんて悪い奴なんだ! 顔からしてキモイ。サイコは去れ! ビョンスがんばれ! じじー負けるな!
と応援していた私は、ビョンスが、いや、ウォン・シニョン監督が仕掛けたすべらかな蜘蛛の糸にからまれた蝶そのものでありました。もがけばもがくほど、つるつる滑る糸にからめとられ、身動きがとれないまま死に体のようにエンディングを迎えたのでありました。
降参します。
とても圧倒的な完敗でした。
ぐわー。なんておそろしい映画なんだ!
韓国映画、さいこー。
