ドラマ

イ・チャンドン監督「シークレット・サンシャイン」(2007)

2019-10-31

神に求めるべからず! あなたに寄り添う人間の存在に気づけ!

作品情報

●評価 3.0★★★
●原題 밀양(密陽)
●2007年製作
●上映時間142分
●監督 イ・チャンドン
●脚本 イ・チャンドン
●出演
チョン・ドヨン、ソン・ガンホ、チョ・ヨンジン、キム・ヨンジェ、ソン・ジョンヨブ、ソン・ミリム、キム・ミヒャン、イ・ユニ、キム・ジョンス、キム・ミギョン

あらすじ

夫を交通事故で亡くしたシネチョン・ドヨン)は息子ジュンといっしょにソウルを離れ、密陽に来た。夫がいつか密陽に住みたいと言っていたからだ。密陽でピアノ教室を始めるシネ。ジュンは幼稚園に通い、シネも近隣に少しずつ馴染んできた。

密陽には知り合いがいなかったが、シネたちを助けてくれる人がいた。ジョンチャンソン・ガンホ)である。カーセンターを経営するジョンチャンは、シネが密陽に来る途中、車が故障して立ち往生していたところを救助した時からの縁であった。彼は、密陽の意味を「秘密の陽射し」と教えてくれたシネに不思議な魅力を感じていた。

夜、シネが町の親睦会を終えて帰宅すると、息子ジュンが家から姿を消していた。錯乱するシネ。そのうち、不審な男から電話があり、息子を誘拐したので身代金を用意しろと言う。翌日、シネが銀行に行き、身代金を用意するも、息子を返してもらうことはできず、数日して息子の遺体が川で発見される。殺害したのはジュンの幼稚園の校長トソプチョ・ヨンジン)であった。

息子を殺害されたシネは、悲しみを乗り越えられず何日も苦しむ。突然泣き出したり、小さなことに怒り狂ったり。ジョンチャンはそんな彼女を放っておくことが出来ず、つねに寄り添いつづける。

ある日、無神論者だったシネは宗教集会に足を運ぶ。教会に通い始めて、少しずつ悲しみが癒され始めたシネ。教会の模範生になったシネは、自分の息子を殺したトソプを赦そうと考える。自分にはその準備ができていると疑わなかったシネだったが、いざ刑務所でトソプに会うと思いもよらぬ感情が湧き、彼女はトソプを赦すことができなくなる。

人は、宗教によらずば安寧を得られないのか。
鬼才イ・チャンドン監督が宗教と人間の在り方に一石を投じた社会派作品である。



※以下は、ネタバレを含みます。まだ観ていない方は読まないことをお勧めします。


神に対してではなく、人間に対して突きつけた映画

色々な意味で、心を射抜かれた映画でした。すばらしかったです。

この映画のすばらしさは、観終わった後、心で何度も反芻した後にしみじみと生まれてくる。この映画は、ただのラブストーリーではなく、宗教と人間の距離を問うた社会派の作品だとわたしには感じた。この分野にたいして一石を投じるのはさぞかし勇気がいっただろう。イ・チャンドン監督の映画人として挑戦する姿勢に拍手したい。

その他、カンヌ映画祭・青龍映画賞という二つの大きな映画祭で女優主演賞を獲ったチョン・ドヨンさん。全編ほぼノーメイクで、子を失った母シネの怒りと悲しみを全身全霊で表現していた。そんなシネを、だれにバカにされてもずっと見守り続ける、ださかっこいい男を演じたソン・ガンホさん。ほんとうにすばらしかった。

「赦す」という言葉は、神以外には使えない言葉である

教会で神に怒りをぶつけるシネ。十字架をにらみつけ、机を激しく打ち叩く。

私自身クリスチャンであるが、「あなたには神が必要だ」という上から押し付けるような言い方が嫌いで、宗教の勧誘はしないでいる。しかし、誰かが布教してくれたからこそ、私も今日キリストの恵みにあずかることが出来ているわけで、そこには当然感謝がある。

一方で、宗教に入らずとも人は救われるとも信じている私は宗教にたいして一定の距離をもつ人間だ。では、なぜクリスチャンになったのかと問われると、救済されたいためではなく、「学びたい」と考えたからだ。教会の末席に座り、偉大な諸先輩方が積み重ねてきた歴史を学び、魂を成長させるために学びたかった。人はどう生きねばならぬのかを。

そんな平信徒ではあるが、クリスチャンの私が観ても、この映画が伝えたかったものは素晴らしいと思う。それは、宗教のもつ危うさであり、妄信することの危険さである。宗教を全否定している訳ではないが、つき合い方を間違うと人生が台無しになるということである。人間と宗教の距離感覚は大切だ。それほど宗教は劇薬であり、信じ過ぎても裏切られても、人の心は粉々に砕け散る。シネが、信じていた神に裏切られたと感じた時のショックは、まさにこれに値する。

元来、説教くさいものが嫌いな私は「赦す」という言葉に大いなる懐疑を抱く。なんの権威があって人間が人間に「あなたの罪は赦された」と言うのであろう。牧師や神父然り。それを最終的に決めるのは神であり、人間ではないはずだ。

集会で離れたところに座り、怒りをぶつけるシネ

映画の中、シネチョン・ドヨン)がクリスチャン家庭集会で怒りをぶつけるシーンがある。
どうやって許すの? 赦したくても私には許せないわ。(自分の息子を殺した)あの男はもう神に赦されて、心安らかにいるのよ」

シネは信仰をもったことで心の安らぎを得たが、つねに自分を愛してくださるはずの神が、あれだけ自分を苦しめた男をすでに赦し、安寧にしていたことに驚愕し、神を呪う。神はなぜ自分より先に彼を赦したのか。なぜ神はわたしの心を分かってくれないのかと。

神を自分の都合のいいように解釈していたシネに待っていたのは、自分が主体となって赦すことができない現実であった。

わたしはシネがいったん信仰をもつことで一時の安寧を得たことを心から喜ぶが、信仰(神)との距離を測り間違えたことで心のバランスを大きく崩してしまったことを残念に思う。そういう意味では、神は「応える神」ではなく、「沈黙する神」だと心に刻んでおくべきだろう。神の愛は人智を超えたところにあり、人間の思うようにならないものだ。

人生は、苦しくて空しいものだ。信仰も同じだ。信仰で人は幸せになるわけではない。苦しいことから逃れようと信仰をもつことは事態を悪くする可能性もある。

だが、「苦」こそが「神の愛」である。人はそんな苦しさの中にいるからこそ、隣りにいて支えてくれる人に気づき、これに感謝する。シネを心から愛する人---ジョンチャンが正にその人であり、神の愛によってもたらされたものであると私は信じるし、この映画が伝えたかったものだと思った。

印象的なシーン。シネとジョンチャンが見上げていたもの

この映画、わたしにとって印象的だったシーンが上図である。

終盤、シネが美容院でカットを頼んだ時、なんと、息子を殺した男の娘が店員として現れ、シネの髪の毛をカットする。最初はじっと我慢していたシネだったが、耐えきれず店を飛び出し、それをジョンチャンが追いかけたシーンである。

シネは、どうしてあんな店を私に紹介したのよ、とジョンチャンに怒りをぶつけるが、ジョンチャンは状況をすぐに把握できず、上手く答えられない。ジョンチャンが故意にしたのではないことが分かっているシネもどうしていいか困り、二人はふと空を見上げる。

わたしは二人が美容院の看板を見上げたのでなく、明らかに空を見上げたこのシーンに何とも言えない感動を覚えた。(※これが演出か自然かは分からない)。

ジョンチャンが空を見上げたのは、店の看板を見た後、その場を繕うために空を見上げた感じがする。シネに怒られて天に救いを求めるような感じもしなくはない。
一方、シネは、息子を殺した男が死ぬほど憎いし、その娘も憎い。わかってくれない周りも憎いし、神の愛を聖人ぶって説く教会連中も憎い。だから、天に向かって「またあんたなのね!」と神をにらむような感じだ。彼女からすると、この場面を作ったのは神であり、神がまた小癪(こしゃく)な真似をして自分を試そうとしていると憎らしかった。

実は、わたしはシネが美容院を飛び出した瞬間、とても残念に思った。大人しく娘にカットさせてあげていたら、この映画のラストが上手にまとまったのにと。

だが、この天を憎らし気に見上げたシネの行動から、私は、人間は簡単には悲しみを乗り越えられない生き物であり、真の意味で神の愛など分かるものではないということを、したたかに教えられた気がした。とくにシネのように信仰にのめり込んだかと思ったら、信仰を捨てて神を激しく恨むという、神との距離感覚がうまくとれない人間が正にそれである。

その後、シネは婦人服店のマダムと談笑し、家に帰って、庭で髪を切る。追いかけてきたジョンチャンが笑いながら鏡を支えてあげる。怒りの後に、普通の日常が来るシーンだ。

時間がかかるだろうが、シネは知っていくだろう。なにげない日常の流れの中に、神の愛が満ちている。人は、なんの変哲もない毎日を繰り返すことで、悲しみを癒していくしかないことを。

神の愛はどの人間にも燦燦と降り注ぐ。それは太陽の陽射しと同じだ。
それに気づかない人間だけが、さみしいと大声で泣きわめいているのである。

サンシャインをシークレットにしているのは、わたしを含めた人間の愚かさ以外にない。そのことをこの映画を観ていて感じた。

いやん。誰か助けて! 耳に残って離れない!「嘘」 by キム・チュンジャ

김추자 - 거짓말이야 (1971)
キム・チュンジャ「嘘」(1971)

息子を殺した男が、神に罪を赦され、安寧にしていることに納得できないシネ(チョン・ドヨン)がクリスチャン集会に忍び込み、キム・チュンジャ( 김추자 )の「嘘(거짓말이야)」を大音量でかけて牧師の説教を妨害するシーン。

正直、シネのあまりに狂気じみた行動にどん引いて唖然としたのだが、一方で、あまりにキム・チュンジャの「嘘」がこのシーンにはまりにはまっていて、腹がよじれるほど笑ってしまった。

みんな嘘よ~♪
嘘よ 嘘よ 嘘なの~
愛も嘘 笑いも嘘~

みんな嘘よ~♪
嘘よ 嘘よ 嘘なの~
愛も嘘 笑いも嘘~

宗教が「嘘」だとは思わないし、監督もその意図はないだろう。
この歌は、この時の「シネの宗教にたいする気持ち」を表したものに過ぎないが、「シークレット・サンシャイン」と聞いた瞬間、キム・チュンジャの「コジンマリヤ~♪」を連想してしまうようになったのは、大いなる罪として監督に深く反省してもらいたい。

コジンマリヤ~♪

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毒女 悦子

韓国映画をみてハッと胸をわしづかみにされたことありませんか?
悲しい時つらい時に韓国映画を見て、心がほんのすこし救われたことありませんか? しあわせを感じたことありませんか?

わたしはたくさんあります。

韓国映画のもつ奥深さになぐさめられたり、息もできない胸苦しさを覚えたり、一日中その余韻に浸ったり、夢の中まで追いかけられたり。 韓国映画に流れるあたたかいもの、残忍なもの、切ない永遠のものに、 ずっとずっと恋をしています。

同じ気持ちの人たちとつながっていたい。

アラフィフ。老後が心配。
でも死ぬまで韓国映画を抱きしめているぞ。

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